談話室「滝沢」

 

談話室「滝沢」を知っていますか・・
私が20代のころ、新宿東口にあった喫茶店です。
あの「ルノアール」から独立したそうですね・・・。
和風でゆったりとしたスペースが確保されており、 我々の仲間内では「スラブ」と呼ばれていました。
「スラブ」集合と云えば、山へ行く相談のことです。
何故「スラブ」と呼ばれていたのかは、 その当時、谷川岳一ノ倉沢の冬季登攀の課題になっていたのが「滝沢第三スラブ」です。
確実なテラスが無いうえに、あまりにも雪崩の危険が大きかったから、皆が躊躇していました。
その「滝沢第三スラブ」を1967年2月、当時同じ山岳会の先輩であった森田勝氏が初登攀しました。
皆さんがご存じの、佐瀬稔著作「狼は帰らず アルピニスト森田勝の生死」の主人公です。
国内の登攀に、そしてヨーロッパの登攀やヒマラヤ遠征に数々の伝説を残しました。

黒部丸山東壁緑ルートを映画の撮影と共に開拓していました時は、我々は新人で基部にてウロチョロとサポートをしていました。
時には開放されて、黒部川下の廊下十字峡まで散歩を許されました。
その間、森田氏がボルトを打ちつづけていたのです。
早く同じように登りたいものだと皆が願っていました。
そして1980年、森田氏はグランドジョラスから帰ってきませんでした。
黒部丸山東壁の基部でサポートをしていた私どもはその後、内蔵助沢出合の対岸に聳えていた「赤沢岳西面の岩稜」や「黒部別山沢のルンゼ及び側壁」を登ることができました。
(「岩と雪10号」に掲載されています)
私にとって、森田氏と一緒に登れたのは、丹沢の沢と三ツ峠だけでしょうか・・

話は変わりますが、
最近谷川岳で初登攀を記録された方々と同席する機会が何度かありました。
ほとんどが70~80歳代です。
さすがに往時の面影は薄くなりましたが、初登攀時の記憶は鮮明に残っているようです。
そして、初登攀時に打たれたハーケンやボルトは、今や確実なアンカーとはならなくなっています。
それだけ風雪の中で時間が流れたのですよね・・・

古い話ですみません



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