・・・ア フ リ カ??

 

・・・またアフリカへ行くのですか??
違うのですよ・・
昨年の2月(2008年2月) オジサン4名がケニヤ・ナイロビに一ヶ月滞在して「キリマンジャロ山」に登頂してきた後日談なのです。
帰国して1年以上が経ちましたが反省会も開いてないと云う事で、先日箱根の温泉に一泊してきました。
なにせ、60代後半から70代のオジサン達(正しくはお爺さん?)ですから、記憶は急速に曖昧になってきます。
そんな訳で、各人の写真を持ち寄って思い出話に花が咲いたのです。

4人の中でFさんは福岡県出身で、現在は岩手県一関市に在住です。
そのFさんが帰国後、地元紙に「時の人」としてキリマンジャロ登頂の記事が掲載されました。
それがきっかけとなって、岩手県厚生年金受給者協会の講演会にゲストとして招かれました。その時の講演原稿コピーをもらいましたので、その一部分を紹介してみようと思います。
そもそもFさんとの出会いは、私の元職場のKさんです。
Kさんは現役時代にドキュメンタリー番組のスタッフとしてアフリカへ出かけていました。
そんな関係でアフリカにはまってしまい、定年退職後ナイロビに長期滞在していました。

Fさんは青年期に読んだアーネスト・ヘミングウエイ著「キリマンジャロの雪」が記憶に残っており、一度登ってみたいと定年を前にした長期休暇を利用してキリマンジャロ登山ツアーに申し込んだのですが、参加者が少なくて催行されませんでした。
そこで、サハリツアーに参加をして、その後現地の登山ツアーに参加しました。
登山経験の無いFさんは5100m地点でリタイアして帰国したそうです。
ここからがFさんの偉いところです。
このツアーの際に現地の人達とコミュニケーションがとれなかったのが残念で、定年退職をするとナイロビにある日本アフリカ文化交流協会が経営するスワヒリ語学園に5ヶ月間滞在して勉強しました。
この滞在中にKさんと出会っていたのです。
多分この出会いの中でキリマンジャロへ登りたいという話が出ていたのでしょう・・
以上の経緯を経て、私達の計画にお誘いしたのです。
今回、私達がナイロビに一ヶ月間滞在したのもこのスワヒリ語学園に居候していたのです。
そもそもこの学園は、JAICの人達が現地に赴任する前にスワヒリ語を勉強するところです。

前置きが長くなりましたが、Fさんにとりましては3回目の正直で「キリマンジャロ山」に登頂できたのです。
ハイキング程度しか経験のないFさんの登山談の一部を披露いたします。

出発してから4日目、いよいよ頂上の真下に位置する最後のキャンプに向けて出発です。
ゆるい上り坂を進む間もなく、今度は火山灰と岩だけしかない砂漠状の道が延々と遥か彼方まで見えています。裾野まで行けば、そこがキャンプであると聞いてはいましたが、行けども行けども距離が縮まりません。
定年後は頑張らないでのんびりと過ごそうと思っていたのに何でこんな遠い所に来て頑張っているのかと思うと自分がおかしくもありました。
なにか考えて歩けば苦しさを忘れられるかと、比叡山延暦寺の焼き打ちで亡くなった快川和尚の言葉「心頭滅却すれば火もまた涼し」をこの場にそぐわないと考えながらも、口の中で何度も唱えつつ歩調を整えて歩きました。
どうにか最後のキャンプに近づいた時、前の方から突然「道をあけろ!」という大声に驚きました。
少し先の岩陰から人を乗せた一輪車が迫ってきました。あわてて道の端によけると、七・八名のポーター達が一輪車を取り囲む形で走りすぎました。
高山病で倒れた人を下山させているところです。
話によると日本人で、かなり重症とのこと・・・
日本人は我々と前々日にキャンプで出会った愛知県の一人旅の青年だけのはず?
確かめると、やっぱり彼でした。
出会った時の話では、ケニアに入ってから東アフリカを旅行する予定であったが、ケニア大統領選挙の余波で混乱が起きてケニアは危険であると聞かされて、タンザニアのモンパサから入国して、時間がとれたのでキリマンジャロ登山を思い立ったとのことでした。
時間が取れたとはいえ早く登山を済ませたいと、高度順化もそこそこに一日早く上って行きました。そう云えば話をした時顔色が冴えず調子が良くないようで、かなり無理をしていたようでした。
後で聞いたのですが、下山をして事なきを得たようです。
キャンプに着くと私はへたり込み、その場でしばらく仰向けになって天を仰いでおりました。
6時ころに夕食を済ませて仮眠に入ります。
この仮眠が非常に大切で、ここで眠れないと途中でバテルことになります。
眠ることは出来ましたが、歩いている夢ばかり見ていました。
夜中の12時に最後の登頂へ出発しますので、11時には起きて準備に入ります。
忘れ物が無いか確認をして出発を待ちます。
待っている間に何となく両親のことを思い出していました。
明後日が母の祥月命日であることを思い出しました。また、父は山が好きで九州の「福岡山の会」の開設当時のメンバーだったので、私も少しは山好きの血を引いているのではないかと考えたりもしていました。
12時に出発して、前回挫折をした5100mを越えました。
ここから先は、私にとって未知の世界で正念場を迎えます。
高山病の初期である頭痛がしてきましたが、我慢ができない程ではなかったのでそのまま登り続けました。
途中で2回ほど吐き気がしましたが、なんとかやり過ごして5200m地点の最後の休憩場所に辿りつきます。
ここから一気に頂上の一画でありますギルマンズ・ポイントまで休みなしで登ることになります。
この時点で、高山病の別の症状が現れていたようです。
この場所は丸い巨大な岩が並んでおりました。
ガイドが一番厳しい行程になるので注意事項を話しているようでしたが、ほとんど覚えておりません。
この場所が丸太小屋にいるようで夢心地でした。
歩き出してからも睡魔が襲い、半分夢心地で歩いてました。
寒さがマイナス20度位であったそうですが、気にはなりませんでした。
しかし、両手の痺れがひどく、指先は痺れを通り越して痛みが増してきました。
指を開いたり閉じたりして刺激を与えましたが痛みは酷くなる一方で辛い思いをしました。
これがもっと寒くなると凍傷になるのではないかと思いました。
ザックに差し込んでいたペットボトルは完全に凍っていました。
柔らかい火山灰の急な登りで、道がジグザグにつづいています。
暗い夜道と睡魔の中で足を出してはいますが、どこに踏み出してよいのか解らなくなったり、ジグザグ道のターンの所であらぬ方向へ踏み出して行ったりで頭が混乱していました。
この様な時は後ろから腰を押さえて方向を定めてくれたり、声をかけてくれましたのでその瞬間は正常に戻りましたがすぐ分からなくなっていたようです。
あえぎながら登ることは苦しかったのですが、ここで止めようとは思いませんでした。
今登らなければ二度と登れないという思いが強かったことは確かです。
高山病は人によって症状が違うそうですが、運が悪いと突然倒れて岩に頭を打って死に至ることも有るそうです。
山頂近くになると岩山となり、岩と岩の隙間を縫って登って行きます。
幾つかの岩を上り詰めると大きなテラス状の岩棚が見えました。
そして、大きな岩を登り切ると岩棚の上に出ました。
すでに夜も明け始めており、山頂の壮大な景色がひろがっています。
雲散霧消とはこのことを言うのでしょうか、今までの夢心地が消えて感動が湧いてきました。
極楽浄土が天上にあるのなら、これがそうかも知れないと感じて思わず手をあわせていました。
兄弟6人の中で両親に今一番近い所に居ると感じました。
「父ちゃん、母ちゃん、ここまで来たばい・・」
心の中で、思わず博多弁で両親へ話しかけていました。

どうですか・・・
普通のオジサンがキリマンジャロ山へ登頂した時の偽らざる心境でした!!!



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